2012年01月24日 19時53分
子なし共働きの30代夫婦・妻です。
異業種の夫とはすれ違いの生活をしています。
夫:不定休月2~3日(土日は必ず出勤)9時出発・21時半帰宅
妻:日曜休み+週休1日、7時30分出発・19時帰宅
結婚前は家庭と仕事の両立、素敵な奥さん??を夢見てました。
子供ができれば、いったん退職して数年は専業主婦もいいかな、と思い
それまではバリバリ働こう~~!!という予定でした。
しかし、早3年子供できず。いわゆる不妊カップルです。
職場内では「結婚後もバリバリ働く」人という認識が定着して
どんどん責任のある立場になっていき、仕事は増える一方・・・。
(むしろ、子供できた組さんから残業押し付けられてる?)
というかんじで、仕事と家庭の両立!!のはずが
どんどん仕事のウエイトが重くなっていき、苦しいです。
我が家は夫が超多忙ということもあり、
家事は100%私負担(これは私も了解)
実際は80%実施、20%は目をつぶるお約束(これは夫が了解)
でしたが近頃は
実施率が50%をきることも・・・
家で作る夕食が唯一の家庭の雰囲気でしたが最近は出前や外食も多くて。
さすがに夫も目をつぶるのも限界。
私自身も負い目に限界。
仕事にやりがいはあり、
子供がなかなかできない私にとって、引けめ?を隠す逃げ場でもあり
仕事や仕事上の地位を失うのは怖いです。
(主婦が子育ての愚痴を自慢げに言うような感じ?を仕事にすりかえる
ことで精神的安定を保っているので)
多忙を極める夫を家で待ち続ける寂しさも辛いし・・・。
皆さんはどんどん増える仕事にどんな風に線引きされていますか??
家事はどんな風にこなしていますか??
私自身未婚者で、想像での質問なのですが
夫は普通の会社に勤める会社員。一方、妻は専業主婦。
子供はおらず、パートにも勤めておらず、親の介護も現状では必要なし。
現状でも、夫は家事分担をすべきだと思いますか?
1年前に結婚が決まった為一緒に住み始め、昨年末に結婚しました。
結婚後も私は仕事をフルタイムで続けており、もちろん主人も働いています。
主人がお給料を私の倍は持ってくるので、家事はなるべく私が、と思ってやっています。
しかし、主人の方が帰宅時間が早く、自ら洗濯物を取り込む、お米を研ぐ、お風呂を沸かすは
やってくれます。
それについては本当にありがとうと思っています。
私は買い物をして帰って来てから、夕飯を作り、洗い物をし、お弁当を作り、洗濯をし、
その他家のちょっとした事をやっていますが、私も朝が早い為、
それだけであっという間に寝なくてはいけない時間になってしまいます。
主人は洗い物が嫌いなようです。
今回は、主人の方が早く帰って来て私が残業で少し遅かった日に、
お米を研ぐためにおかまを洗ってくれた時に
ついでに流しにある自分のお弁当箱を洗ってくれと言ったら、キレられました。
帰って来てからあれだけやっているのにまだやらせる気かと言われました。
私は、本当に他のものを洗うついでにそこに出したお弁当を洗ってくれればいいのに、
それだけでも帰ってきてから家事をやる時に有難いのに、と思い、
喧嘩したくて言ったわけではないのですが、激しい喧嘩になりました。
そんな不満だったら俺だっていっぱい溜めている、
そうやってやっているのが当たり前になっている
どこまで求めるんだ、
そんな事を言われるんだったらもう早く帰って来ない
等言われました。
面倒くさいからもう、お弁当は暫くいらないと言われました。
確かに、私は今までは理解のある主人だと思っていましたが、
他の洗い物のついでに自分のお弁当箱を洗うのがそんなに嫌なのかと理解出来ない部分があります。
自分でも自分がおかしいのかな、ワガママなのかな、と良く分からなくなってきてしまいました。
お弁当箱は毎日洗ってくれとは思っていません。
私が残業で疲れているときだけで良いんだと言ったのですが、
とても怒っていて「俺は協力している」と言っていました。
普段は仲良くやっている方だと思います。
でも、喧嘩は多く、ちょこちょこやり合いますが、仲直りも早いです。
しかし、今回の事は本当に良く分からなくなってしまいました。
共働きのご家庭は、どういう風に家事をやりくりしていらっしゃるのでしょうか。
私の言い分はワガママでしょうか。
今後もこの様な揉め事があるのではと思うと怖くなってきてしまいます。
長文になり、申し訳ございませんがアドバイスを宜しくお願い致します。
タイトルのとおり妻の出産予定日の5日後に徹夜覚悟の大きな仕事を入れられ、とても困惑しています。
まずは夫婦とその周囲の状況について説明いたします。
父親になる私は33歳で、大学の就職課で見つけたとある上場企業で7年間働いた後、父の経営する社員20人ほどの小さな会社に入社しました。
最近1年間は業務が猛烈に多忙になり妻がつわりで苦しいときにもほとんど力になってあげられませんでした。
今抱えている仕事は夏ごろには一段落しそうなので、夏休み中に生まれたばかりの赤ちゃんと産後でぐったりしている妻の面倒を見るのに時間を使おうと考えていると部長と私の父でもある社長には伝えてあります。
妻の実家は貧しい父子家庭で、里帰り出産はできません。
私の実家も父は現役で働いており母は鬼婆のような人物なので到底頼りにならないどころか、妻と生まれたばかりの赤ちゃんにかえって負担をかけてしまいます。
自分たちの育児は自分たちでやるしかない状況です。
父は若いころから根っからの仕事人間で、私には父と一緒に何かをした記憶が全く一つもありません。
私には弟がいるのですが、7歳も離れているので弟が生まれたときの記憶ははっきりしています。
しかしながら父がオムツを変えたり風呂に入れたりしていたところは一度も見たことがありません。
母親が大変な苦労しながら愚痴や文句をこぼしながら弟を育てていました。
そんな環境でも私も弟もちゃんと成人したので全く両親を恨んではいないのですが、子供に父親の記憶がないなんて悲しい結果ですし、もう取り返しがつきません。
私はそんな将来は望んでいません。
今は会社は深刻な人手不足で毎日終電近くまで残業地獄状態で、週末も出社している状況です。
育児を理由に業務命令を拒否するのは法的には問題ないことと思います。
しかし2代目と見られている私がそのようなことをするのは社会的に許されることでしょうか?
このままでは生活を守るために仕事をしているはずなのに、仕事のために生活が破壊されてしまいそうです。
妻の実家のことは個人のプライバシーの問題なので到底人には話せません。
いかに周囲の理解を得つつ育児の時間を確保するか、難しい状況に立たされているように感じています。
ほぼ同時に子供が生まれることを知りながら徹夜覚悟の仕事を入れてくる会社と、産後の妻子のサポートを理由に拒否したい私。
どちらの言い分が筋が通っているでしょうか?
部下に子供ができたとき上司としてどういう対応をしたか、あるいは自分に子供ができたとき上司はどういう配慮をしてくれたか等、ご経験、ご意見をお聞かせいただけましたら幸甚です。
去年9月にパートで採用されました。
思ったより人間関係がきつく一緒に入社した人も、後から入社した人も辞める人が多くて、私も悩み
休んだりしてしまい、辞めようと思い連絡したら、
人間関係でということを言ったら場所を変えてくれるなどしていただきました。
しかし、私の体調なんですが、1月には風邪で休み、3月には月経前になる体調不良、精神不安定で休みました。4月になってまた月経前に同じような体調不良、精神不安定で休み、
始まっても二日で終わり楽になりませんでした。これではいけないと思い婦人科にかかりました。
月経困難症と診断されました。ピルを飲めば楽になりますということで、次の生理が始まったら飲んでくださいと言われ、上司に説明しました。
お薬飲んで頑張りましょうよと言っていただけましたが、まだその頃は生理が終わって五日くらいしか経っておらず次の生理が始まったら飲むんですとか言えなくて、5月2日6日も仕事だったんですが、行けませんでした。
7日に不順のせいか生理が始まり、ピルを飲み始めました。飲みはじめたばかりで、そんなすぐには効果はわかりませんが、次の生理の前に体調不良や精神不安定が改善されるかなんですよね。
早く病院に行くべきだったと悔やんでます。
こんな休んで待ってくれる会社なんてありませんよね。でも、もう行かないと辞めなきゃいけなくなる。
なんか、まだまだ仕事も全部覚えていなくて、迷惑かけて行きづらい、周りになんて言われるかとか考えてしまいます。でも辞めると生活に困ってしまう、どうしたらいいでしょうか。
ただ行けばいいだけなのに…
スペイン領テキサス(スペインりょうテキサス、英: Spanish Texas)は、1690年から1821年まで存在したヌエバ・エスパーニャの1地方である。名目上スペインが、メディナ川とニュエセス川の北の土地を含み現在のテキサス州の一部である領土の所有権を主張していたが、1689年に失敗したフランス植民地サンルイ砦の残骸を発見するまでこの地域に植民しようとしていなかった。1690年、アロンソ・デ・レオンが数人のカトリック教会宣教師を護衛してテキサス東部に至り、テキサスでは最初の伝道所を設立した。インディアンがスペイン人の入ってきたことに抵抗したとき、宣教師達はメキシコに戻り、その後の20年間はテキサスを放棄していた。
スペインは1716年にテキサス東部に戻ってきて、幾つかの伝道所と1つの砦を建設し、スペイン領とフランス領ルイジアナの緩衝地帯を維持しようとした。その2年後に伝道所とそれに最も近いスペイン開拓地との中継点として、サンアントニオに初めての文民による開拓地が設立された。この新しい町は直ぐにリパン・アパッチ族インディアンの襲撃目標になった。この襲撃はほぼ30年間周期的に続いた後、1749年にスペインとアパッチ族が休戦協定を結んだ。この休戦協定はアパッチ族の敵部族を怒らせ、コマンチェ族、トンカワ族およびハシナイ族によるスペイン開拓地への襲撃に繋がった。インディアンからの攻撃と、副王領から遠いことで、開拓者達はテキサスに行くことを躊躇うことになり、ヌエバ・エスパーニャの中でも人口の最も希薄な地域の一つのままだった。インディアンからの攻撃の脅威は1785年まで続き、この年スペインはコマンチェ族と和平合意に達して、スペイン開拓者達にとって問題を与え続けていたリパン・アパッチ族やカランカワ族をその後に破るときにコマンチェ族が役立った。この地域に伝道所の数が増したことで、他の種族を平和的存在に変えることが進み、18世紀が終わるまでにこの地域でキリスト教に改宗していない狩猟採集型部族はほんの少数のみとなった。
フランスは、フランス領ルイジアナをスペインに割譲した1762年に、正式にテキサスに対する領有権主張を放棄した。ルイジアナを獲得したことはテキサスがもはや実質的緩衝地帯ではないことを意味し、テキサスの最東端にあった開拓地は解体されて、住民はサンアントニオに移った。しかし、1799年、スペインはルイジアナをフランスに返還し、その直後にナポレオンがルイジアナをアメリカ合衆国に売却した。アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンは、この買収にはロッキー山脈の東でリオ・グランデ川より北の土地全てを含むと主張した。これに伴う論争は1819年のアダムズ=オニス条約で、アメリカ合衆国がサビーン川をテキサスの東境界と認める替わりに、スペインがフロリダをアメリカ合衆国に割譲することで解決された。
1810年から1821年のメキシコ独立戦争の間、テキサスは多くの騒擾を経験した。マヌエル・マリア・デ・サルセド知事は1810年の反乱で転覆させられたが、看守を説得して釈放させ、反クーデターの動きを助けさせた。3年後に主にインディアンやアメリカ人によって構成された北部共和国軍が再度テキサス政府を転覆させサルセドを処刑した。スペインの反撃は残酷なものとなり、1820年までにテキサスにいるヒスパニック系市民は2,000人足らずになった。スペインは1821年にヌエバ・エスパーニャの支配を放棄せざるを得なくなり、テキサスは新しく創られた国家、メキシコの1州となり、メキシコ領テキサスと呼ばれる時代になった。
スペインはテキサスに深い足跡を残した。ヨーロッパから連れてきた家畜はメスキートが内陸部まで拡がる原因となり、農夫達が土地を耕し灌漑を施したことで風景は一変した。多くの川、町および郡の名前にスペイン語が使われ、それらは現在でも使われている。スペイン風建築の概念は今でも通用している。テキサスは最終的にイギリス系アメリカ人の法体系を採用したが、家産差し押さえ免除や夫婦共有財産などスペインの法習慣の多くが残っている。
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